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彼が最も大切にしている存在は自分ではなく、彼の家族であることは判っている。 「やめろ」 「どうして」 「何度も言わせるな。私は帰るぞ」 スツールを立って腿を這う大きな手を払えば、予想通りに男の口から不満が漏れる。 男が結婚してから毎回のように交わされるやりとりだ。いい加減うんざりしてくる。 「じゃあお前ん家で飲み直すか。んで、続きしようぜ」 「馬鹿言え」 男の分も合わせた支払いをテーブルで済ませると、ロイは振り返りもせずに店を出た。 この次は絶対にこいつに払わせてやる、と心中で毒づく。 「おい、待てよロイ。車を拾った方がいいんじゃねえのか」 「宿舎に戻るお前はそうしろ。私はこのまま歩いて帰る」 「ったくしょうがねえなー。じゃあ付き合って歩いてやるよ。危険な夜道を大佐殿一人で歩かせる訳にもいかねえしな」 「……」 その言葉にちらりとロイが横目で見れば、男は眼鏡の奥で緑色の目を細める。 「お前の家で飲み直しって言ったろ」 勝手にしろ。 どんなに断っても絶対にこいつは家までやってくるんだろう、とロイは溜め息をついて歩を進めた。 その間にも、ヒューズは機嫌良く話し続けている。まだ大して呑んでもいなかったが、元々饒舌な彼の舌を更に回らせる程度は摂取したのかもしれない。 陽気で頭の回転も早く、またサービス精神旺盛な男との会話は確かに楽しい。互いの胸の底にある妙な蟠りさえなければ、ロイも彼の振る話題に乗っていたのは間違いなかった。 しかし、先程の悪戯にあの言葉だ。素直に会話を楽しむ気分にはなれない。 ふと、ヒューズが眼鏡を直したその手に、鈍く光るまだ新しい指輪が嵌められているのが視界に入った。 つい先程、テーブルの下で悪戯にロイの腿を撫で回していたその手だ。 いくら店の隅とはいえ、週末の酒場は人で溢れている。誰が気付くとも限らないその中で、あの男はよくそうやってロイに悪戯を仕掛けてくる。 以前ならその心地良い挑発にいくらでも乗った。 この男とのセックスに関しては元々淡白ではなかったし、よりスリルで興奮出来るのならばその方が断然愉しい。 それこそ、隣を歩く男が呆れるほど貪欲に求めたこともある。 だが、それももう過去の話だ。 ちらりと、ロイは男の指輪を盗み見た。飾り気のないシンプルなデザインだが、品は良い。 同じものを白く細い指に嵌めて、幸福そうに笑う彼女の姿が目に浮かんだ。 「………」 ヒューズに気取られない程度の小さい息を吐く。 あの指輪は、自分にとって越えてはならない一線があることを告げている気がする。欲望に負けて、浅ましく彼を欲する自分を抑する最強の盾だ。 そして多分、それを絶対に外そうとしない男にとってもそうなのだろう。それでも彼はその指でロイに触れてくるし、だが決して外すことはない。 ロイがその存在ゆえ、己に歯止めをかけていると知っていて。 ―――――どうしようもない。 結局、以前の関係には戻れない。 それなのに彼がこうして同じことを繰り返すのは何故なのだろうと思う。頭の悪い男ではない筈なのに。 「お前が気にしなきゃいいだけの話だろ」 考えに沈んでいたロイの頭上から、ふいにヒューズが口を開いた。 「……何だって?」 訝しげな視線を向ければ、男は僅かに肩を竦めて見せる。 「だから、これだろ。お前さんが気にしてんのは」 言って、左手をひらひらと振る。 まるで心の中を読まれたかのようなタイミングで切り出された話に、ロイは内心で慌てた。そのつもりはなかったが、あの指輪を凝視していたのかもしれない。 「俺が結婚して1年。婚約してからなら1年と……3ヵ月くらいか?その間、お前とは一度も寝ていない。お前がいわゆる愛人とか不倫とか、んな体裁を気にするような 繊細なヤツじゃないってのは今まで遊んできた女を見てれば判る。そんなお前が他の男のものである女とはセックス出来て、何で俺とは出来なくなるんだ?男か女か、その違いだけだろうが」 「そうじゃない」 「じゃあ何だよ。言ってくれなきゃ判らねえだろうが」 「言わなきゃ判らないようなら、何を言ってもお前には理解出来ないさ」 冷たく吐き捨て、ロイはさっさと歩き出した。後ろからゆっくりと付いてくる男が小さく何かをぼやいていたが、憤りを感じるロイは振り返りもしなかった。 全然違う。男か女か何てどうでもいい。 お前だからだ、ヒューズ。お前が心の底から愛しいと思う女と結ばれたから、自分はそれを壊せない。 グレイシアといるお前の表情が穏やかで、二人の間に流れる空気が温かなものだから、それを裏切ることが出来ない。 自分には見せたことのない、甘く優しい表情をお前は彼女だけに向けていた。 そのことに、自分はあんなにも絶望させられたのだ。 どれだけ惚気を聞かされるより、あの表情一つで全てが判る。 そのことにこの男は気付いていないのだろうか?誰よりも頭の回転が早く、自分自身を理解し周囲の人間の関係を的確に把握しソツなく立ち回る、狡猾なこの男が? 快楽を求めるだけの相手なら、どうでもいいことだ。 いつの間にか辿り着いていた家に、ロイは思わず安堵した。 安堵して、この会話を家の中でもまだ男が続けるようならどうすればいい、と差し込んだ鍵を回せずに考え込む。 確か、この前にヒューズが訪れたのはほんの1ヶ月前。だが、多忙でこの家に来たのは彼が中央へ帰る直前だった。 その前は、ホークアイとハボックが一緒だった。 さらにその前は……。 「ロイ」 「え!?あ、何だ!?」 「……何だじゃねえよ。どうしたんだ?鍵、開かないのか」 あ、とロイは呆けた声を出して、それから慌ててもう一度鍵を差し込み直した。どうもこの男との関係について考え出すと止まらなくなるようだ。相手に見せたくない失態ばかりを晒してしまう気がする。 「貸してみろよ」 言いながらヒューズが手を伸ばしてきたが、構わず鍵を回す。ガチャンと重たい音を立てて施錠が外され、ドアを開けた。 「おー、何か久し振りって感じだな」 室内に足を踏み入れて、ヒューズは軽く見回す。 「飲みたければ勝手に漁ってくれて構わない」 「お前は?」 「着替えてくる」 「んじゃ、先にやってるわ」 そのまま階段を上っていくロイを見上げて、ヒューズは手を振りリビングへと向かっていった。 視界の隅でそれを見届けると、ロイは居心地の悪い思いのまま寝室へ入り、暑苦しい軍服と軍靴を脱ぎ捨てる。 白の綿シャツと黒のスラックスに着替えると、そのまま降りていく気にはなれずにベッドに腰掛けた。 ――――どうする? ヒューズとの関係をどうしたい? 終わりにしたいのなら、本気で元の親友同士に戻りたいのなら、彼が今望むことを拒否すればいいだけのことだ。 セックスはしない。 セックスに繋がるような行為も駄目だ。 合鍵だって、あいつの婚約と同時に奪い返している。 簡単じゃないか、あの男の戯れを許さなければいいのだから。 「……簡単か」 そこまで考えて、自嘲に顔が歪む。 簡単に割り切り、感情がそれについてきてくれればここまで惑わされることもない。そしてヒューズもそれを判っている。ロイが自分への想いを捨てきれていないのを知っているから、その指先で触れてくるのだ。 結局は自分が招いている。 愚か過ぎて、乾いた笑いすらもう出てこない。 「……」 長い息を吐いて、そのままぱたりとベッドに横たわった。シャツ越しに感じる冷えたシーツが心地良く、今夜はこのまま何も考えずに眠ってしまいたいと思う。 ふと階下で飲んでいるだろうヒューズの姿が浮かんだが、構うかと瞼を閉じた。 何も性欲処理の相手に餓えている訳ではないのだし、それでも治まりがつかなければ、一人で抜くなり何なりすればいい。 面倒なことを、これ以上考えたくない。 瞼を閉じた途端に急激に襲ってきた睡魔に、ロイは抗うことなく身を委ねた。 |