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「それでは失礼します」 きっちりとした敬礼をこの国のトップである男に返す。男がこちらを満足そうに―――愉しそうに見ているのが判ったが、視線は合わせなかった。かと言ってあからさまに外すことはさすがに出来ず、男の顎と襟元の中間辺りに視線を定める。 控えていた士官が扉を閉じていくのと同時に男に背を向けて歩き出す。男に散々嬲られた下肢が痛む。だが、それを誰にも悟らせるような不様な真似は出来ない。 背筋を伸ばし、普段と同じ歩幅で静まり返った深夜の廊下を進んでいく。軍靴の踵が硬い石の床を鳴らし、辺りへ大きく反響する。 「…?」 自分が歩き始めて間もなく、同じように靴音を鳴らして角の向こうから誰かがやってくるのに気がついた。ロイの靴音に少しだけ遅れて、もう一つの靴音が響いてくる。 もしかしたら副官の彼女だろうか、とロイは無意識の内に背筋をさらに伸ばした。真面目ゆえに時として融通の利かない彼女が、宿舎に戻ることなく自分を待っていることは充分考えられた。 だが、ロイはすぐに近づいてくる靴音が副官のものでないことを悟った。彼女のものにしては歩幅も、響く音も大きい。 思わず足を止めたロイに構わず、足音はさらに近づき、もうすぐそこまで来ている。 間もなく角を曲がり、薄闇の中から現れた男の姿にロイは身体を強張らせた。 「―――よう、ロイ」 角を曲がったところで足を止め、男が小さく笑う。 「……ヒューズ」 掠れた声で彼の名を呼ぶ。こくりと知らず咽喉が鳴った。 すでに日付も変わった深夜で、場所はこの国の頂点に立つ男の執務室からほんの僅かに離れたところだ。呼び出されたロイはともかく、こんな時刻に二人が偶然出会うことなどまずないような状況で、それでもどうしてここに、とは互いに口にしなかった。 ただ、表情を硬くして互いを見つめることしか出来ない。 「ロイ」 やがてその沈黙に耐え切れなくなったのか、仕方ないなと言いたげにヒューズが苦笑する。だが、その笑みは苦いというよりも優しいものだ。口端を少し引き上げて、眇めるように目を細めて笑う。幼い子供の頃から、そして士官学校で共に過ごしたあの頃から、仕方がないと言いつつも最後にはいつも自分の我儘を聞いてくれた時に見せる、彼独特の表情。 「まあ、前置きが長いのは好きじゃねえしな」 ふう、と軽く息を吐いて彼が一度だけ足元に視線を落とし、またロイへと向き直る。 「話がある」 そう言って、ヒューズがちょうど二人の中間辺りにある扉を開ける。要人たちの控えの間として使われているそこは、高い地位を持つ人間を収める部屋だけあって、広い室内は各地から取り寄せた極上の調度品でまとめられていた。豪奢なモスクデザインのペルシャ絨毯に、それと同系色の美しい刺繍が施されたソファ、足の部分に繊細な細工の施されたオーク材のテーブルが見える。 だがこの時間ではこの部屋を使う者もなく、暖炉の火も完全に消え冷たい空気が満ちているようだった。 「……悪いが疲れているし、時間も遅い。手短にここで話せ」 ロイはちらりと室内を一瞥してから、男の言葉に緩く頭を振った。 「ここじゃ落ち着かねえだろ。まあ、どうしてもってんならここでもいいけどな。お前さんが本当にそれでいいなら」 「……」 返事に詰まるロイに、ヒューズは片方の眉を上げて見せると先に扉を潜って行く。 仕方がない、とロイは彼に悟られないよう小さく息を吐いて、後に続いた。今夜の彼は、そう簡単には引いてくれそうにもない。恐らくは長引くだろう話を、誰かに聞かれるのは確かにまずい。それに、正直なところ今すぐにでも躯を横たえ、少しでも休息を取りたかった。 柔らかそうなソファに無意識に目を向けつつ、ロイは躊躇いながらも後ろ手で扉を締める。 「脱げよ」 扉を閉めた途端、振り返ることなく低い声で命令する彼に、一瞬何を言われたのか判らなかった。 無防備に、それこそきょとんとした自分の顔はどれだけ間抜けなものだったろう。 「ヒュ、」 「服を全部脱いで、脚を開いて見せてみろよ」 ロイの言葉を切って、ゆっくりとヒューズが振り向く。その顔には先ほどの馴染みのある笑みはどこにもない。 いつもは澄んだ碧色の双眸にあるのは怒りと軽蔑、それから深く昏い嫉妬だ。 「お前さんがたった今してきたことを、俺に見せてみろよ」 「―――!!」 やはり知っていたか。 彼が知らない筈はないと頭では判っていたつもりでも、実際にその口から齎された言葉は想像以上にロイの胸を鋭く抉ってくる。後退りをしてしまいそうな己を心中で叱咤して、ロイは口元を引き締めた。 だが指先は彼から逃れることを諦めきれずに、触れられそうで触れることの出来ない背後の扉を求めて彷徨っている。 「……ここでストリップなどしていて、誰かが来たらどうする」 掠れた声で反論すれば、男は鼻で笑った。 「ここにいるのはお前さんとあの男の関係を知っている人間だけだ。そのお前さんが素っ裸で立っていたとしても、誰も何も言わねえよ。軽蔑はすれども、な」 「……」 投げつけられる言葉と視線は辛辣だ。 喜怒哀楽のはっきりした男だが、基本的には怒りという感情を表立って見せることは少ない。その彼がこうして怒りを隠すことなく目の前にいるということが、付き合いの長いロイでも恐ろしかった。それが冷ややかな怒りであれば尚更だ。 「自分で脱げないなら、俺が脱がしてやるよ」 「な…!」 黙り込むロイに焦れたのか男は大股で近寄ると、乱暴な手つきで軍服の上着を剥ぎ取った。肩から剥ぎ落とされる勢いにロイの足元が縺れ、そのまま背後の扉に背中から叩きつけられる。 「い…!」 衝撃に息を詰めて抗議の声を上げたが、ヒューズの動きは止まらなかった。肘で絡まった上着をそのままに、白いシャツの前を引き千切る。ボタンが四方に飛び、上着と同じように肘まで乱暴に脱がされると、あまり陽に焼けない肌が露わになった。真新しい鬱血の跡が、僅かとはいえその肌に残っている。 「ヒューズ!」 咎めるロイの声に構わず、男がボトムにまで手をかけた。オーバースカートを無造作に外し、前を開いただけで、ロイの下肢に残る情事の匂いにヒューズの手が止まった。 少しでも早くあの部屋から、あの男の元から離れたくて、ろくに始末もせず出てきてしまったことを今更のように悔やむ。 「…どうして俺に言わなかった」 「……」 「どうして何も言わなかった!」 激昂した男の声が室内にびいんと響き渡る。憤りそのままに肩を揺すぶられ、ロイは諦めにも似た感情で眸を閉じた。 「……お前に言えばどうにかなるのか?」 掠れて発せられた言葉に、ヒューズの目が見開かれる。自嘲にロイの顔が歪んだ。 「言えばお前がどうにかしてくれるのか?出来る訳ないだろう!?たかが佐官の一人でしかないお前も、私も!」 感情の昂りそのままに、両手で男の胸を乱暴に押し返す。 「逆らうことなど、出来る訳ないだろう……!」 ぎり、と歯を食いしばり、搾りだす声は掠れて情けないものだった。それでも身の内から突き上げてくる怒りと憤りの感情は止まることがない。 「言いなりになるしかないだろう…!」 ロイ、と言って腕を伸ばしてきた男を払い除けて、俯いたまま何度も頭を振る。 彼に対して今まで覚えたことのない昏い感情がふつふつと湧き上がり、ロイは前髪を乱したままゆっくりと顔を上げた。 「―――大体、女房と子供を危険な目に遭わせてまで、お前が私を助けることなどあるのか」 ヒューズの目を真正面から見つめて嘲笑う。自分の唇が醜く歪んでいるのが判った。 「そう思うのか」 暫くの間の後、男の声が静かに響いた。 「お前は本当にそう思っているのか」 言い過ぎたと、口が過ぎたと謝れば彼も本気にはしない。 そう頭では理解出来ているのに、今の自身の感情はそれについてきてはくれなかった。 「思っているさ」 く、とまた醜く嘲笑に顔が歪む。 「あの人も言っていた」 最高権力者である男のことを口にすると、ヒューズの肩が僅かに揺れた。 彼の矜持を踏みにじることが何故か心地良くて、ロイはさらに口元を歪めてヒューズを下から睨め上げると、ことさらゆっくり言葉を紡いだ。 「私に触れることを恐れて逃げたお前は、卑怯な男だと」 挑発するように哂って見せたが、彼が判然とした反応を返すことはもうなかった。 ヒューズは口を閉ざしただ静かにロイを見つめるだけで、室内は衣擦れの音すら響いてしまいそうに静まり返っていた。 「……話が終わったのなら、失礼する」 これ以上話すこともないと、ロイが疲弊しきった身体を引きずるようにして扉に手をかけた時、背後から強い力で肩を掴まれた。 「な…!」 無言のまま、男に肩を掴まれ床に引き倒される。 「ヒューズ!」 「触れていいんだろ?……触れて欲しいんだろ?」 「ヒュ…」 「遠慮することも、我慢することもない。俺が触れたいように、お前さんに触れていいんだろ?」 「何…」 「俺がずっと、お前にしたかったことを教えてやるよ」 上から覗き込んでくる彼の眸には、残酷な欲情の光が宿っていた。華奢なフレームの端が光を反射するのがやけに目に映える。 「嫌だ……!嫌だぁ…!」 首筋に顔を埋められ、ロイは一気に恐慌状態へ陥った。 がむしゃらに腕を振り上げ、自分に圧し掛かってくる男を拒もうとロイが子供のように泣きじゃくる。 男に抱かれるのはもう嫌だ。女のように脚を大きく開かされ、自身と同じ性器を体内に捻じ込まれるのはもう嫌だ。 肌を滑る手も、這わされる熱い舌も唇に吸い上げられることも。 かつては望んで―――結局は肌を重ねることはなかったけれど、それでもかつては触れ合うことを焦がれた相手であるのに、今身の内を突き上げてくるのは嫌悪と恐怖だけだ。 「やめてくれ…!」 相手がヒューズであっても、もう無理だ。 「ヒューズ!」 強い力で手首を取られ、床に押さえつけられる。眼鏡を外した男が自分の胸を忙しく貪るのが見えて、それから逃げるようにきつく目を瞑った。乱暴な愛撫は、時にロイの肌に歯を立てて傷つけていく。 「お前を…!」 お前をあの男と同じ生き物だと思わせないでくれ。 その言葉は血が滲むほど強く唇を噛み締めることで、かろうじて彼に投げつけることだけは避けられた。 怒りに満ちた男の力は恐ろしく強く、弱った躯ではろくな抵抗にもならない。ロイはただ獰猛な獣に貪られるまま肌を嬲られ、追い上げられ、何度も深く突き上げられた。 堪らずに上がる悲鳴も悉く男に塞がれて、助けを求める声にすらならなかった。 |